
ヤギの刺繍を眺める朝
視線の先に留まるもの
朝の光が窓から差し込み、畳の上に淡い影を落としている。昨夜の雨が嘘のように上がり、空気は少しだけ湿り気を帯びていた。机の上に置かれた古びたポロシャツの胸元に、ふと視線が吸い寄せられる。見慣れた配置にありながら、そこに縫い込まれているのはワニではない。小さく、しかし鮮明な輪郭を描くヤギの姿だ。
針の運びが刻む記憶
糸の重なりを指先でなぞってみる。一目ずつ丁寧に刺された繊維は、布地をわずかに盛り上げ、光を受けるたびに影の表情を変えていく。横に走る縫い目は均一で、まるで機械が刻んだかのような正確さを誇っているが、ヤギの角の曲線には、どこか作り手の意思が宿っているように見える。白地の生地に浮かぶその意匠は、無機質な清潔感の中に微かな揺らぎを添えていた。何度洗いを繰り返したのか、生地の端はわずかに毛羽立っているが、この小さなヤギだけは、時を止めたかのように凛とした姿でそこに佇んでいる。糸の太さや色の選定、そしてなぜこの意匠が選ばれたのか。思考はただその点に向けられ、外の喧騒を遠ざけていく。
静寂のなかの輪郭
ポロシャツを持ち上げ、肌に触れる瞬間の冷たさが背筋を通り抜ける。窓の外では遠くで鳥の声が響き、街が動き出す気配がする。それでも、この布の感触とヤギの刺繍に集中している間は、呼吸の音さえも遠くに聞こえるような気がした。指先が触れるたび、硬質な針の感覚が肌に伝わる。この刺繍は、ただの記号としてそこに在るのではなく、微かな熱を帯びた物語を静かに閉じ込めている。シャツを畳み、机の上にまた戻す。その所作を終えるまで、ヤギの角の先を見つめ続けていた。








