
夜の階段、手すりの距離
夜の八時を過ぎて自宅に戻った。玄関の電気を消し、暗がりを通り抜ける。廊下の先、階段の下に立つと、一段目の蹴込み板がぼんやり浮かんでいる。蛍光灯の光が天井から降り、手すりの表面に沿って淡く伸びる。
手すりの木目
手すりは桜の無垢材だ。購入時に選んだものではないが、毎日触れるうちに知った。木目は緩やかな山形を描き、節の周りで渦を巻いている。表面はワックスで保護され、光を反射する。触れる代わりに、視線だけでその起伏を追う。光の当たる部分は白っぽく、影になる溝は暗く落ち込む。そのコントラストが、木の厚みを教える。節の下に小さな傷が一つある。引っ越しの時に付いた跡だ。光の加減で見えたり消えたりする。
灯りの影
上方の照明は階段の一部だけを照らす。手すりの下側には不規則な影が落ち、一段ごとに折れ曲がって壁に斜めの線を描く。その影の中に、自分の肩の輪郭も混ざる。空気はひんやりとして湿度を帯びている。外の曇り空から閉め出された夜の匂いが、わずかに残っている。一段目に足を乗せると床が微かに軋む。手すりに手を伸ばす準備をしながら、視線は木肌に留まる。影の先端は、手すりの曲がり角で途切れる。その先は暗がりだ。
触れる前
二段目に上がる。手すりは変わらない位置にある。手を置かず、ただ並行して進む。足の裏で蹴込み板の硬さを感じる。三段落ちたところで、ふと右手の指を開く。指と手すりの間に、指一本分の隙間ができる。冷えた空気がその隙間を通り抜ける。触れようと思えばすぐ触れられる距離だ。しかし、まだその時ではない。階段の中腹に差し掛かる。手すりが緩やかな曲線を描く角まで、あと数段。踊り場の床が見えてきた。足の運びは一定のリズムを刻む。手すりを視界の端に捉えながら、夜の空気を吸い込む。触れる直前の微かな空白が、階段の長さを変えているようだ。








