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思考と技術の記録。besoft Blog

開発・設計・運用・プロダクトづくりのなかで得た知見を、読みやすくまとめて共有します。

記事一覧

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夜の縁側に止まるアゲハチョウのイラスト

夜の縁側でアゲハチョウ

夜の縁側に、アゲハチョウが一匹止まっていた。網戸を開けようとして手を止める。昼間の暑さがまだ残っていて、縁側の木もほんのり温かい。

その蝶は、羽を閉じたまま微かに動くだけだ。もう飛べないのかもしれない。近づいても逃げない。指を伸ばして、そっと触れてみようかと思ったが、やめた。

ふと思い出すのは、昼間のニュースだ。すねのツボを押すと精神が安定するという話を見た。あのツボの位置、正確には覚えていないけれど、何となく押してみたくなった。夜の縁側で、一人で。

アゲハチョウはまだ動かない。ひょっとしたら、夜の暗さに驚いているのかもしれない。昼間はあんなに暑かったのに、今は風が冷たく感じる。蝶の羽が風で少し揺れる。

僕は縁側に座って、蝶を眺めながら、あのツボの話を思い出していた。あの人は、ツボを押すと動悸が改善すると言っていた。動悸なんて、普段感じないけれど。でも、この静かな夜に、蝶と二人きりだと、心臓の音が聞こえてくる気がする。

蝶は、突然、羽を広げた。そして、ふらふらと飛び立った。縁側の端まで来て、また止まる。僕は、もう一度、そっと息を止めて見守った。

夕暮れの郵便受けに手を伸ばす男の手元

夕暮れの郵便受け、開けたら二通

買い物から戻って、郵便受けを開けた。二通入っていた。

一通は光熱費の明細で、表ににじんだ雨の跡があった。去年の夏もこうだったか、と思い出す。もう一通は見慣れない差出人で、宛名だけ手書きだった。裏を見たが、返信用の宛名もない。

階段を上がる間に、その封筒の紙の厚みを指で確かめた。結婚式の案内にしては薄いし、はがきにしては重い。

部屋に入って、電気を点ける前に、窓の外がまだ明るいことに気づいた。七時半を過ぎているのに、空はすっかり曇っていたわりには白っぽい。雨が降りそうで降らない、肌にまとわりつく一日だった。

封を切ろうとして、やめた。先に冷たい麦茶を飲んでからにしよう。そう思ったのは、変に期待している自分がいるのを認めたくなかったからだ。

麦茶をグラスに注ぎ、そのまま立って飲んだ。窓際のハンガーに掛けたままのシャツが、風もないのにゆれている気がした。

二口目を飲んでから、封筒に戻った。切れ目を入れると、中から折りたたまれた便箋が一枚出てきた。読む前に、まず便箋の裏を見た。そこには何も書かれていなかった。表に戻ると、三行だけの短い文があった。

それを読んで、麦茶を一口飲んだ。知らない人の名前だったが、書いてあることは単純な連絡事項で、自分の宛て違いかどうかも分からないまま読み終えた。

便箋を封筒に戻して、机の隅に置いた。光熱費の明細だけは、明日の朝にでも見よう。麦茶がまだ半分残っている。

夕方の自転車のタイヤに空気入れを差し込む手元のイラスト

夕方の自転車、タイヤの空気を足した

夕方、五時過ぎにベランダへ出たら、日差しはまだ強いのに、風だけは少し涼しかった。明日は小雨が降るらしいと、スマホの天気予報が言っていた。

洗濯物を畳んでいるときに、タイヤの空気が抜けていることを思い出した。通勤に使っているママチャリの後ろ輪を触ってみる。指で押すと、少し沈む程度だ。家に空気入れはあったはずだ。

物置をあさると、古い足踏み式の空気入れが出てきた。先端をバルブに押し込んで、足を踏み込むと、空気が入る音が、しゃっ、しゃっ、というより、ぷしゅー、という。

しばらく足を踏んでいたら、首のあたりに汗をかいてきた。空気入れを外して、タイヤを押してみる。まだ柔らかい気がする。もう一度、差し込み直して、あと十回くらい踏んだ。

そういえば、この空気入れは、父が使っていたものだ。青い筐体に、錆のような灰色の斑点ができている。子どもの頃に、空気を入れるたびに金属のクランクが擦れる音がした。今は、その音がしない。逆に、もう少し静かになったような。

空気入れを足で踏みながら、タイヤの空気で思い出すのは、いつも決まってこのくらいの時間帯だ。何の用事もないのに、玄関の前で空気を足している。

汗が額ににじんできた。昼間の気温が高かったからだろう。タイヤを指で押しても、じゅうぶん硬くなっている。

空気入れを物置に片付けた。でも、まだ空気が足りないような気もした。明日の朝、乗るときに再び確認すればいい。

午後の日差しが差し込む部屋の隅で、首を少し傾けて止まっている扇風機

午後の扇風機、首振りの止まる角度

今日は8月の最初の土曜日。午後3時を過ぎたあたりから、部屋の中がじわじわと暑くなってきた。昨日は通り雨があって少し涼しかったのに、今日は朝から日差しが強く、窓の外ではセミが鳴いている。

僕はダイニングテーブルで読みかけの本を広げていたが、背中に汗をかいてきた。そこで、押し入れの横に置いてある扇風機を出してスイッチを入れた。この扇風機はもう10年近く使っていて、首を振らせるとジージーと音がする。

最初は首を振っていたのだが、しばらくするといつの間にか止まっていた。止まったときに首は右を向いていて、ちょうど窓の方向を指している。手で少し回して向きを変えようとしたが、重くて動かなかった。いつもと同じだ。この扇風機は、止まると必ず右を向く。左に動かそうとすると、モーターが抵抗しているみたいに硬い。

首振りの止まる角度が毎回同じだということは、たぶん中のギアがすり減っているせいだと思う。でも、正確には分からない。そろそろ買い替え時なのかもしれないが、まだ風は出る。昔、実家にあった扇風機も同じくせがあって、父が「こいつは右が好きだから」と言っていたのを思い出した。

そのまましばらく、扇風機の風に当たっていた。風が当たっていると、どこかでかき氷の機械の音が聞こえた気がした。しかし外に出ると、かき氷屋の車は来ておらず、ただセミの声が強くなっているだけだった。

再びテーブルに戻り、本を開いた。扇風機はなおも右を向いたまま、風を送り続けている。

午後の台所のカウンターにあるティッシュ箱と湯呑み

午後のティッシュ箱、角の折り目

午後二時を過ぎた台所で、ティッシュ箱の角に折り目を見つけた。いつの間にかついていた。誰がつけたのか、自分でつけたのかさえ覚えていない。箱はまだ半分以上残っている。

その折り目は、箱の左上の角だけが内側にぽこっとへこんでいた。無造作に押したというより、何かを待ちながら指の腹で何度かなぞったような形だった。触ってみると、段ボールの柔らかい部分が固くなっていた。湿気でふやけたのかもしれない。

思い当たるのは、先週の夕方、電話をしながら箱を抱えていたことくらいだ。コードを巻き取る手が空かず、顎と肩で受話器を挟んだとき、どこかに指が当たった気がする。あのときかどうかは分からない。

ティッシュの箱は、使い終わると畳んで捨てる。でもこの折り目を見ていると、つい捨てられなくなった。折り目はただのへこみで、開けば消えるものではない。軽く押し戻してみたら、少し戻ったが、また同じ場所が沈む。

昔、実家の茶箪笥の引き出しにも、角が潰れた箱があった。母が爪で開けた痕がついたまま、中身を出さずに置いてあった。何が入っていたかは覚えていない。ただ、あの箱も同じように、誰かの指の形を残していた。

午後の光が窓から差して、箱のもう一つの角を照らしている。そちらはきれいな直角のままだった。同じ箱でも、片方だけ記憶があるみたいだ。

午後の机の上に置かれた雑誌とコーヒーカップ

午後のマセラティ、シルクロードの話を読んで

昼過ぎ、ネットでマセラティがシルクロードを走る記事を見つけた。イタリアの高級車が中国西域の砂漠を走るなんて、想像するだけで非現実的だ。でも、なぜか引き込まれて最後まで読んでしまった。

記事には、ボローニャのネプチューン広場から始まる旅のことが書いてあった。海神の像が持つ三又の鉾が、マセラティのロゴの由来だという。そんな話を読んでいると、車そのものよりも、その名前の由来のほうが気になってしまう。僕は車に詳しいわけでもないのに、妙に納得してしまった。

窓の外は曇りがちで、湿った空気が部屋に流れ込んでくる。エアコンをつけたまま、窓を少しだけ開けておくと、外の音がかすかに聞こえる。遠くで誰かが話している声や、自転車のベル。そういえば、昨日は夕立が降った。今日は降らないらしいが、道端の水たまりはまだ乾いていないかもしれない。

シルクロードと聞くと、砂漠のキャラバンを思い浮かべる。ラクダの背に荷物を積んで、ゆっくりと進む姿。それが今では、エンジン音を響かせて走るなんて、時代も変わったものだ。記事の写真には、なだらかな砂丘の道を走るマセラティが写っていた。車体の青が、空の色と似ていた。

もしも自分があの場所にいたら、何を考えるだろう。広すぎる景色の中で、自分の小ささを感じるだけかもしれない。それとも、何も考えずにただハンドルを握っているだけか。どちらにせよ、僕には縁のない話だ。それでも、ページをめくる手が止まらなかった。

気づくとコーヒーが冷めていた。カップを持ち上げて一口飲むと、苦味がじんわりと広がる。午後はまだ長い。そろそろ買い物に行こうか、それともこのまま何もしないでいるか。決められずに、僕はもう一度窓の外を見た。

夏の公園のベンチに座る人の足元、影が長く伸びる様子のクラフト紙・羊毛フェルト風イラスト

昼下がりのベンチに座ってみたら、足元の影が動かなかった

正午を少し回った公園のベンチは、案外空いていた。日陰を選んで腰を下ろすと、太ももの裏に木のぬくもりがじんわり伝わってくる。買ったばかりの缶コーヒーを隣に置き、ふと足元を見た。

影が、あまりにもぴたりと止まっている。風はあるのに、木の葉はかすかに揺れているのに、コンクリートに落ちた自分の影だけが、そこに貼りついたみたいに動かない。当たり前なのに、妙に気になって、しばらく眺めてしまった。

普段なら、影がこんなふうに静止していることなんて意識しない。歩いているときは、一緒に動くのが当然だし、部屋の中ではそもそも影を踏む感覚さえ薄い。でも、こうして座って動かないでいると、影はまるで別の生き物みたいに、僕の足元でじっと息をひそめているようだった。

缶コーヒーを一口飲む。ぬるい。買ってからまだ五分も経ってないのに、もう冷たさが抜けはじめている。八月の昼は、何もかもをすぐに生ぬるくしてしまうらしい。

そういえば子供のころ、影を踏まれないように走る遊びがあった。あのときは、影は逃げるもの、追いかけるものだった。今は逃げも追いもせず、ただここにある。ふと、右足を少しずらしてみた。影の形が変わる。つま先が長く伸びて、すぐ元に戻る。それだけ。でも、なんだか少し、ほっとした。

またコーヒーを飲む。やっぱりぬるい。でも、飲みきるまでベンチにいようと決めた。

ベランダの隅に張られたクモの巣と、引っかかった枯れ葉。奥には夏の日差しに照らされた植木鉢。

真昼のクモの巣、目印の葉っぱ

ベランダに出たら、手すりの隅に小さなクモの巣ができていた。

細い糸が三角形に張られていて、どこにもクモの姿はない。代わりに、茶色く枯れた葉っぱが一枚、巣の真ん中あたりにひっかかっている。

この葉っぱ、どこから飛んできたんだろう。うちの鉢植えの葉とは形が違う。隣の部屋からはみ出たやつかな。それともずっと上から。もしかしたら、わざわざ目印みたいに挟んだのかな、とも思う。クモが来てちゃんと張れてますよって、点検済みのタグみたいに。

そういえば、小学生の頃、公園でクモの巣を棒で壊しては怒られたことを思い出す。あのときはただの悪戯だったけど、今はなんとなく壊せない。網の張り方を見ていると、端の糸は手すりの塗装の剥げたところにぴたりとくっついている。よく見ると、塗装が少し盛り上がっていて、そこに引っ掛けるのに都合がいいようだ。そんなことまでわかってるのかと感心してしまう。

西日が当たって糸が光り、葉っぱの影が床に落ちている。風が吹くと全体が揺れて、葉っぱがくるりと回った。裏側はまだ少し緑がかっている。

このまま朝まで持つのかな。さっきからあまりクモは来ていないみたいだ。

吊るされた速乾Tシャツ

10着目の速乾Tシャツを買いに行った朝

土曜の朝、ユニクロのアプリを開いてしまった。お気に入りに入れたままだった速乾Tシャツが、今日までの期間限定価格になっている。白と黒はもう持っているから、今回はグレーにしようか。いや待て、これで10着目だ。同じようなTシャツを10着も持ってどうするんだ。

去年の夏、初めて買ったときは半信半疑だった。本当にすぐ乾くのか。でも着てみたら、汗をかいてもベタつかず、洗濯してもすぐ乾く。あまりに快適で、2着目、3着目と増えていった。色違い、素材違い、襟の形違い。気がつけば、クローゼットのTシャツエリアはユニクロの速乾性ばかりになっている。

でも10着目はさすがに多い。そう思いながら、アプリの「カートに入れる」ボタンを押す指が止まらない。最近は在宅ワークも多いし、外に出るときもだいたい同じような服だ。誰かに「いつも同じ服だね」と言われたことはないけど、もしかしたら思われているかもしれない。

以前、友人に「服を選ぶ時間がもったいないから、同じTシャツを5枚持ってる」という人がいた。当時は「そこまでしなくても」と思ったけれど、今はちょっとわかる。選択肢が少ないのは楽だ。朝、何を着ようか迷わなくていい。でも、同じ服ばかり着ていると、なんだか自分の個性が薄れていくような気もする。

結局、グレーをポチった。これで10着目。届いたら洗濯して、来週からまた毎日のように着るんだろう。クローゼットのTシャツたちは、きっと何も言わずに新しい仲間を受け入れてくれる。でも、そろそろ違う服も着てみようかな、とちょっと思うのだった。

朝のベランダで、咲いた朝顔の鉢を眺める男性の手元。鉢は素焼きで土の表面が少し湿っている。朝顔の花は青紫で4つ開いている。背景にはぼやけた朝の空と隣家の壁。手は水差しを持っている。

朝顔の朝、咲いた数を覚えているか

朝、ベランダの鉢に水をやっていたら、隣の家のおばあさんが顔を出した。いつものように「暑くなるねえ」と言い合って、それから彼女が僕の手元を見て「今朝はいくつ咲いた?」と尋ねた。

僕は答えに詰まった。確かにさっきまで花がらを摘んでいたのに、数を覚えていない。三つか四つか。いや、もしかすると五つあったかもしれない。「ええと、四つ……いや、三つだったかな」と曖昧に言うと、おばあさんは小さく笑って「うちのは今日は二つだけよ」と教えてくれた。

水をやりながら、なぜ数を数えなかったのか考えた。毎朝、咲いているのを見るのに、全体の様子で満足してしまう。青がきれいだとか、蔓が伸びたなとか、そういうことに気を取られて、肝心の数を意識したことがほとんどなかった。でも、確かに花がらを摘むとき、指でつまんでポキッと折る感触は覚えている。ひとつ、ふたつ。あの感触の回数が、咲いていた数のはずなのに、その断片がつながらない。

それと、もうひとつ引っかかったことがある。おばあさんは「今日は二つだけ」と言ったあと、少し間を置いて「昨日は四つだった」と言い添えた。つまり、彼女は咲いた数をちゃんと記録しているのだ。僕は昨日の数をまったく思い出せない。そもそも昨日は朝顔を見たのかどうかさえ、曖昧だった。

ベランダにしゃがんで、鉢の土の乾き具合を指で押してみる。固まっている。水を足そうとジョーロを傾けると、葉に当たった水がパラパラと音を立てた。そのとき、つぼみが目に入った。明日咲くやつだ。先がほころびかけて、少し色が見えている。明日はこれを数えようかな、と一瞬思ったけれど、きっと忘れる。

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