
雨の朝、コスモスの「野生美」を読み直す
コスモスの細い茎を目で追いながら、僕は今日の花として書かれていた「野生美」という言葉を、もう一度読み直していた。朝七時の雨はまだ細く続いていて、花びらの先に乗った水滴が、ときどき重さに負けて落ちる。昨日からの雨で空気は湿っているけれど、コスモスの姿は弱々しいというより、茎の曲がり方まで含めてそのまま置かれている感じがした。
「野生美」と聞くと、もっと手入れをされていない場所や、背の高い草の間に咲く姿を思い浮かべる。けれど、目の前のコスモスは、誰かが選んだ種から育ったものかもしれないし、整えられた場所で咲いているのかもしれない。そこまで考えてしまうと、花の言葉を読むだけなのに、確認することが急に増える。野生かどうかを決める材料など、僕の前には何もない。
それでも、この言葉が完全に外れているとも思えなかった。花びらは薄く、茎は頼りなく見えるのに、雨を受けたあとも上を向こうとしている。まっすぐ立っているわけではない。隣の茎に寄りかかるように傾き、葉の重なったところで一度折れたような線になっている。その不揃いな立ち方を見ていると、きれいに咲くことだけがコスモスの仕事ではないように思えてくる。
僕は「野生美」の三文字を頭の中で区切ってみた。野生、美。つなげて読むと少し強いが、分けてみると、荒々しさよりも、飾りきれない状態を指しているようにも見える。もちろん、これは僕が今の雨に合わせて勝手に読んでいるだけだ。晴れた日に同じコスモスを見たら、もっと別の言葉を当てたくなるかもしれない。
花の言葉は、花そのものに貼りついた説明ではなく、見る側がその日の気分で拾う短い札に近いのだろう。そう思ったところで、また水滴が一つ落ちた。落ちた先にある葉が少し揺れたので、僕は花ではなく、その葉の付け根をしばらく見ていた。そこには小さな傷のような茶色い跡があり、昨日見たときからあったのか、雨のせいで現れたのかは分からない。
コスモスの花びらは、雨で少し重たそうになっている。けれど「野生美」という言葉を訂正するほどではない気がして、僕は読み終えた画面をすぐには閉じなかった。次にどの花の名前が出てくるのかを見る前に、もう一度だけ、いちばん手前の花びらの端を確かめている。








