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思考と技術の記録。besoft Blog

開発・設計・運用・プロダクトづくりのなかで得た知見を、読みやすくまとめて共有します。

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細い雨が降る夕方の海岸と浅い水たまり

海岸の浅い水たまりを、波の順番から外して見た夕方

海岸の浅い水たまりをまたぎながら、僕は濡れた砂の上に残る波の線を見ていた。細い雨が降り続いていて、海と足元の水の境目がいつもより曖昧に見える。靴先をどこへ置くか決めるだけなのに、乾いている場所を探すより、水たまりの縁を避ける順番のほうに意識が向いた。

18時08分の空はまだ暗くなりきっていないが、雲の厚さのせいで明るさに幅がない。海面は遠くまで見えるのに、水平線を追おうとすると雨の薄い幕に紛れてしまう。僕は一つの水たまりの横で歩幅を小さくし、そこへ海から来た水が入っているのか、雨だけが溜まっているのかを見分けようとした。

水面には細かな波紋が重なっていた。雨粒が作った輪の上を、風ではなく地面の傾きに沿った流れが横切っている。海から離れた場所なのに、縁の一部だけが少し低く、次の波が来るたびに水が薄く動く。僕はそれを見て、さっきから海岸全体ではなく、この小さな水面ばかりを測っている自分に気づいた。

もう少し近くで見るためにしゃがみかけたが、膝を濡らすほどのことでもないと思い直した。その代わり、立ったまま顔を少し下げ、波紋が消えるまで待った。消えたと思うとまた一つ輪が広がり、輪の中心が雨粒なのか、水面の下から押されたものなのか、判断する前に形が崩れた。

海のほうから大きな波が来ると、砂の上の細い水路に水が走った。水たまりの中の波紋とは違い、こちらは一度に形を変える。僕は海を見ていたはずなのに、次には水路の端に集まった小さな砂粒を見ていた。濡れた砂粒は動いたあとで線を残し、その線だけが水の通った方向を教えていた。

雨は強くならず、海岸の音も急に変わらなかった。けれど、目を離すと水たまりの表面はすぐ別の模様になっている。僕は同じ場所を二度見て、二度目には縁の欠けた部分を先に確認した。そこから水が逃げているように見えたが、次の波紋が重なると、また確信できない形に戻った。

歩き出してからも、靴を置く場所を決めるたびに、濡れた砂の線が少しだけ目に入った。海岸を歩く目的があったわけではなく、水たまりを越えるために足元を見ていただけなのに、最後は波の順番を覚えようとしていた。次に水が動く前に、僕は一歩だけ横へずれた。

雨に濡れたハギの鉢植えを窓辺から眺める早朝の風景

ハギの小さな葉に、思案という字を置いた朝

鉢のハギは、細い枝をいくつか横へ伸ばし、その先の小さな葉を雨に濡らしていた。窓のこちら側から見ると、葉の一枚一枚を数えられそうなのに、数え始めるとすぐ重なってしまう。東京の朝は雨が続いていて、外へ出る用事もない僕は、まずその重なり方だけを見ていた。

今日はハギについて書こうと思っていた。花の名前を確認するために画面を開いたのに、検索欄へ指を置いたまま、入力する順番で少し迷った。ハギ、秋、花言葉。三つを並べれば済むことなのに、最初に「秋」と入れると、花の話より季節の説明へ流れていきそうで、結局ハギから打った。

ハギの花言葉として知られているのは「思案」だという。短い言葉なのに、花を見ながら考えるというより、考えがまとまらないまま花のそばにいる感じがある。僕はこの言葉を、立派な意味として受け取るより、枝の向きを何度も確かめてしまう今朝の自分に近いものとして読んだ。

鉢は窓の正面ではなく、少し端へ寄っている。だから雨の筋がガラスを下りるたび、ハギの一部が見えたり隠れたりする。さっきから同じ枝を見ているつもりなのに、葉の間に小さな花があることを見落としていた。見つけたというほど大げさではなく、目の置き場所が数センチずれただけだった。

花言葉を調べるとき、僕はいつも意味を一つに決めたくなる。ハギなら「思案」と覚えておけばよい、と手帳ではなく画面の端に残そうとする。でも今朝は、その言葉をすぐ記録する気になれなかった。文字にすると、枝のあいだにあったためらいまで片づいてしまう気がしたからだ。もちろん、そんなことを言いながら、覚え間違いを避けるためにもう一度確認している。

雨音は強くなったり弱くなったりして、葉に当たった水が一度で落ちず、先端に丸く残っている。そこへ別の水滴が触れると、二つが合わさってから落ちる。僕は花よりそちらを見てしまい、また視線を戻す。ハギの花を見る朝なのに、葉と水の接点ばかり気にしている。

それでも、今日の花としてハギを眺めるなら、「思案」という言葉はきれいに飾らなくてよいのだと思う。何かを決める前の時間や、決めるほどでもないことを確かめ直す時間も、そこに含めてしまえばいい。僕は画面を閉じず、検索結果の文字列を少し下へ送り、同じ説明をもう一度読んだ。

七時十五分の朝は、雨のせいで明るさが均一ではない。窓辺だけが白く、鉢の奥は少し沈んで見える。ハギの花はその境目にあり、近づいて見れば色が分かるのに、今の距離では葉の数のほうが先に目へ入る。今日の記録に花の姿を残すなら、花だけを大きく切り取らないほうがよさそうだ。

僕は結局、ハギの花言葉を「思案」と入力したまま、後ろに続く文章をすぐには書かなかった。窓に残った雨の線を一本だけ目で追い、その線が鉢のどの枝と重なるかを確かめてから、最初の段落へ戻った。戻ったところで、さっき見落とした小さな花がまだどこにあるのか、もう一度探している。

朝の光を受けて咲く赤いヒガンバナ

赤い花の名前を、朝の画面で確かめた

ヒガンバナの写真を画面に出したまま、僕は赤い花びらの数を数えようとしていた。数えても途中で分からなくなるので、結局は花の中心に伸びた細い部分を目で追っているだけだった。朝の光はまだ強すぎず、画面の明るさを一段下げても、赤だけは残った。

今日の花として表示された名前を見てから、花言葉の欄へ指を移した。そこには「情熱」とあった。ヒガンバナに情熱という言葉を当てるのは、分かるようで少し急いでいる気がした。赤いから情熱、という結びつきは簡単だけれど、花を見ている僕の頭に浮かんだのは、もっと細い線や、整いすぎていない花びらの向きだった。

僕は一度画面を閉じ、同じ写真をもう一度開いた。調べ直す必要はないのに、名前の漢字を確認したくなったからだ。彼岸花。文字にすると、さっきまで見ていた赤い形よりも、少し遠い場所のものに見える。名前を読む前にはただの花だったのに、読んだあとには季節の境目まで含まれたようで、こちらの見方だけが増えてしまった。

花言葉は、花の説明書というより、見る側が一度置いてみる短い札なのかもしれない。情熱という札を横に置いても、ヒガンバナの細い花びらが急に力強くなるわけではない。僕はその言葉を正解として覚えるより、写真の赤のそばに仮置きしておくことにした。

画面を少し傾けると、花の下の暗い部分が見えた。そこには赤の華やかさより、茎の細さが先に出ていた。情熱という言葉も、声を大きくすることだけではなく、細いまま立っているものを見落とさないことまで含むのかもしれない、と一度だけ考えた。考えすぎた気がして、すぐに画面を元の向きへ戻した。

外は晴れていて、東京の朝らしい湿り気が残っている。まだ暑さが戻りきる前の時間に、僕はヒガンバナの名前と花言葉を並べて見ていた。どちらも知っているつもりだったのに、並べると少し収まりが悪い。その収まりの悪さを直すために、花の形をもう一度拡大した。

拡大された写真では、赤い花びらの端が画面の外へ切れてしまった。全体を見たいのか、細部を見たいのか、自分でも決められていない。縮小して、また少し拡大する。その繰り返しの途中で、情熱という言葉が画面の下へ隠れたので、僕は指を止めずにゆっくり下へ送った。

曇り空の朝に咲くダリアを少し離れた位置から写した写真

ダリアの前で、華麗という字だけが残った朝

ダリアの花を一輪ずつ見ているうちに、花びらの重なり方が少しずつ違うことに気づいた。といっても、最初から細かく観察するつもりだったわけではない。朝の画面に出てきた今日の花を、寝起きの頭で眺めていただけだった。

東京は昨日の雨が残した湿り気をまだ外側に置いていて、窓の向こうは明るいのに空の色が決まらない。07時20分、気温は低めで、九月の朝としては動きやすい。ダリアの写真を拡大する前に、僕は花の名前を一度だけ声に出した。誰かに聞かせるわけでもないのに、そこだけ妙に必要だった。

今日の花として紹介されていたダリアの花言葉は、「華麗」だった。華麗という言葉は、僕の中では舞台や服装のほうに近くて、花に向けるには少し大げさに思える。けれど、花びらが中心から外へ押し出されるように幾重にも並んでいるのを見ると、控えめな表現を探すほうが難しい。

僕は花の中央を見ようとして、何度か視線を外側へ逃がした。中心は細かく詰まっていて、そこだけを見続けると、全体の形が急に分からなくなる。近くで見る癖があるのに、今回は少し離れて見たほうがダリアらしさが残った。

「華麗」と書かれた文字を、頭の中で花の横に置いてみる。文字は動かないが、花のほうは見る角度で印象が変わる。花言葉が花を説明する札だとしたら、札のほうがずいぶん簡単にできている。簡単すぎる気もするし、そのくらいでないと覚えられない気もする。

以前、花の名前を覚えようとして、名前と特徴を一緒に暗記しようとしたことがある。結局残ったのは、名前の音と、葉の形を見落としたという失敗だけだった。ダリアについても、花びらの枚数を数えようとはしなかった。数え始めると、今日見たいものから少しずれそうだったからだ。

画面を一度暗くして、もう一度明るくする。写真の中のダリアは同じ位置にあるのに、こちらの目のほうが先ほどと違う。さっきは華やかさだけを拾っていたが、今度は花びらの端にある小さな折れや、中心へ向かう狭い隙間が見えた。きれいに整っているというより、整いながら少しずつ乱れている。

その乱れを見てから、「華麗」という言葉が急に遠くなったわけではない。むしろ、言葉が花に追いつくためには、こういう細部をいったん通らないといけないのだと思った。もっとも、そこまで考えたところで僕はまた最初の写真に戻り、花の外側の輪郭を見ていた。

朝の空はまだ曇っている。ダリアを見終えたら画面を閉じるつもりだったのに、閉じる直前になって、花の中心が少し右へ寄って見えるのが気になった。写真の傾きなのか、僕の目の問題なのか分からず、指で画面を動かす前に、もう一度だけそのまま眺めている。

雨の名残を含んだ朝のクズの葉と紫色の花

クズの葉を裏返して、朝の言葉を確かめた

クズの葉を裏返しながら、僕は紫色の花がどこにまとまっているのかを確かめていた。雨の名残がある9月12日の朝、7時10分の空は一面に雲がかかり、葉の表面には細かな水滴が残っている。昨日の雨で濡れたせいか、クズの葉はいつもより重そうに見えたが、実際に指で触れることはせず、端を少し持ち上げるだけにした。

今日の花としてクズを見て、最初に目に入ったのは花より葉だった。三枚に分かれた葉が重なり、その隙間から紫色の花がまとまって出ている。花を探しに来たのに、僕は葉の向きばかり確認していた。表側の水滴が落ちると、下の葉に小さな跡が残り、同じ緑色でも乾いた部分と濡れた部分で見え方が違う。

クズに添えられる言葉の一つに「芯の強さ」がある。花の姿だけを見ていると、少し意外な言葉にも思える。紫の花は細かく、雨に濡れた今朝は華やかさを前へ出してこない。それでも、葉をどけても次の葉が現れ、つるの行き先を目で追うと、簡単には途切れない感じがあった。

ただ、ここで「強い花だ」とすぐ決めるのはやめておいた。僕は植物を見ると、見えたものにそれらしい意味を付けて安心したがるところがある。クズの茎がどこへ伸びているのかも、根がどれほど深いのかも、今いる場所からは分からない。分かったのは、濡れた葉を一枚ずつ見ていくと、花の位置が少しずつ見つかったことだけだった。

一度、紫色の花を数えようとした。けれど葉の重なりで隠れる部分があり、数え始めた位置も分からなくなったので、すぐにやめた。代わりに、花の房が葉の下向きに寄っていることを見た。雨粒が残る細い茎は、触れば折れそうに感じるのに、花のまとまりは思ったより崩れていない。

「芯の強さ」という言葉を考えながら、僕はクズを立派なものに見せようとはしなかった。伸び方には少し乱れがあり、葉同士が重なって、花を隠している。きれいに整った姿ではない。その整わなさを見ていると、言葉の意味を花の外側から貼り付けるより、見たままの細い茎や濡れた葉の中に置いておくほうが合っている気がした。

雲の明るさが少し変わり、葉の水滴が一つ落ちた。音は聞き取れなかったが、落ちた場所だけ色が深くなったので、僕はそこをもう一度見た。花を探していたはずなのに、最後まで葉の変化を覚えている。クズという名前も、今日の言葉も、いったんそのままにして、紫の花が隠れているあたりへ視線を戻した。

雨に濡れたフヨウの花と葉を描いた朝の庭のリアルな写真

フヨウの花を、名前より先に見た朝

フヨウの花を、雨に濡れたままの姿で見ている。朝の雨はまだ細く続いていて、花びらの端にたまった水が重そうに下がっている。昨日から降っているせいか、葉にも乾いたところがなく、緑の濃淡がいつもよりはっきりしていた。僕は最初、花の中心ではなく、いちばん外側の花びらを見ていた。そこだけ少し折れたような線があり、傷なのか、雨の重みでそうなったのか、すぐには決められなかった。

今日の花としてフヨウを調べたとき、花に添えられていたのは「繊細な美」という言葉だった。こういう言葉は、知った瞬間に花の見方を決めてしまうところがある。フヨウを見れば繊細、雨に濡れていればなおさら繊細、と先に答えを置いてしまいそうになる。けれど今朝の花は、きれいなだけではなく、花びらの一部が水を含んで少し下がり、葉の縁には細かな傷もあった。僕はその傷を見つけてから、花の言葉をすぐには重ねないことにした。

それでも「繊細な美」という言い方が間違っているとは思わなかった。繊細というのは、壊れそうなものを遠くから眺めることだけではなく、形のわずかな違いをそのまま見ておくことなのかもしれない。フヨウの花びらは、雨粒を受けても一枚ずつ同じ向きにはならない。中心へ寄るもの、外へ開いたままのものがあり、僕は数えるつもりもないのに、視線だけでその並びを何度か確かめた。

花の名前を思い出す前は、ただ雨に濡れた花として見ていた。名前を知った後は、言葉に合っているかどうかを確認しようとしていた。その違いが少しおかしくて、僕は一度、花から目を外して葉の付け根を見た。そこにも水が残っていて、葉の表側より暗く見える。花言葉を読むと、花そのものを分かった気になりやすいけれど、実際には見る場所が増えただけなのだと思う。

雨の音が弱くなったので、もう乾き始めたのかと思い、花びらの端をもう一度見た。水滴はまだそこにあり、さっきより細くなったようにも、僕の見方が変わっただけのようにも見えた。フヨウの花は朝の光を受ける前の色をしていて、僕はその色をうまく言い換えずに眺めていた。花の言葉を書き留めるなら、その下に小さく、花びらの外側に雨が残っている、とだけ付け足しておきたい。

雨の朝に白いブバルディアが咲いているリアルな写真

ブバルディアの白さを、雨の朝に読み違えた

ブバルディアの白い花を見ながら、清楚という言葉を一度口の中で転がしてみた。外は昨日の大雨がまだ残っていて、今朝も細い雨が続いている。東京の空は明るくなりきらず、窓の向こうの輪郭も少しぼやけている。07時45分、気温は19度ほど。花を眺めるには、暑さよりも湿り気のほうが先に伝わる朝だ。

今日の花として紹介されていたブバルディアには、清楚という意味が添えられていた。白い花だから、その言葉が置かれた理由はすぐ分かる気がした。ただ、四つに分かれた花びらの先はきれいに揃っているわけではなく、ひとつだけ少し横を向いている。茎もまっすぐ上へ伸びるというより、隣の花を避けるように傾いていた。

僕は花言葉を覚えるのがあまり得意ではない。覚えたつもりの言葉が、別の花にも使われていたり、同じ花にいくつも並んでいたりするからだ。ブバルディアの「清楚」も、花そのものの性格を言い当てた言葉というより、見た人が最初に置いてみた札に近いのだろう。それでも、札があると花を見る順番が少し変わる。

まず白さを見る。次に、花びらの縁を見る。そのあとで、中心の奥に残った薄い色へ目が移る。清楚だけで済ませていたら、僕はたぶんここまで細かく見なかった。洗いたてのような白さの横に、雨の日らしい重さがある。花びらは濡れていないのに、空気の湿り気を受けているように見えた。

昨日の雨で、花の表面には細かな水滴が残っている。僕はその数を数えようとして、すぐにやめた。数え始めると、白い花を見ているのか、水滴の確認をしているのか分からなくなるからだ。代わりに、いちばん手前の花だけを少し長く見た。四枚のうち一枚が内側へ折れ、奥の茎を隠している。

清楚という言葉からは、乱れのないものを想像しやすい。でも実際のブバルディアは、整っている部分のすぐ隣に、揃わない部分を持っている。そこを見つけたからといって、言葉を訂正したいわけではない。今日の僕には、白さを先に決めつけないための目印になった、というくらいでいい。

窓の外ではまだ細い雨が降っている。花の名前をもう一度確認しようとして、ブバルディアの文字を見たところで指が止まりかけた。濁点の位置まで確かめる必要はないのに、そこだけ気になってしまう。白い花は視界の端に置いたまま、僕は画面を閉じる前に、花びらの向きをもう一度だけ見ている。

朝の光が差し込む部屋の内側に置かれた白い菊の鉢

重陽の日、菊の鉢を少しだけ近くへ寄せた

白い菊の鉢は窓のすぐそばではなく、いつもより少しだけ部屋の内側に寄せてある。僕が動かしたからだ。朝の光はすでに明るく、昨日の雨が残した湿り気を窓の向こうに感じるけれど、空はよく晴れている。菊の葉には水を含んだような濃さがあり、花びらの先だけが光を拾っていた。鉢の縁には目立つ汚れもなく、動かしたあとに指で拭う必要はなさそうだった。

今日は重陽の日だと、朝に日付を見て思い出した。菊を飾って長寿を願う日、と以前どこかで読んだことがある。読んだ場所までは覚えていないのに、「長寿」という言葉だけが妙に残っている。こういう知識は、必要なときにすぐ出てこないくせに、白い菊の鉢を前にすると急に姿を見せる。日付を確認したあと、もう一度画面を見たのも、何かを間違えた気がしたからではなく、菊と重陽という組み合わせを自分の中で確かめたかったからだ。

菊の花言葉には「高貴」や「清浄」、「信頼」などがあるらしい。白い菊を見ていると、その中では清浄が一番近そうに思える。ただ、花びらの重なりには少し乱れがあって、中心に近いところには開き方の違うものもある。外側の一枚だけ、隣の花びらの下へ入り込んでいるところもあった。整いきっていないのに清らかだと言うのは、僕の都合のよい見方かもしれない。それでも、意味を一つに決めてしまうより、その日の自分に近い言葉を一つ選ぶほうが、花を眺めるときには扱いやすい。

鉢を寄せたのは、光を当てるためというより、視界の端に花が入る位置にしたかったからだと思う。思う、と書いたのは、動かした直後には理由を考えていなかったからで、あとから説明を足しているだけかもしれない。鉢の底が床を擦った音は小さかったが、僕はその音の長さを覚えている。花そのものより、そんなところを覚えているのはいつものことだ。寄せた距離も、手の幅ほどだったのか、それより短かったのか、今となってははっきりしない。

白い花を一輪ずつ見ようとして、途中でやめた。数え始めると、花びらの重なりを確かめる作業になってしまう。いくつ咲いているかを知りたいわけではないのに、数えた数字だけが残りそうだった。菊の花言葉も、正しい順番に並べる必要はないのだろう。窓から入る朝の光が少し横へ移ったので、鉢の向きをほんの少し戻し、葉の影が花にかからない位置を探しているうちに、出かける支度のことを思い出した。戻す角度を決めるまでに一度だけ手を離し、花の中心が見えるかを少し離れたところから確かめている。

曇った九月の朝に咲くホトトギスの花

斑点の数を数えない朝、ホトトギスを読む

ホトトギスの花びらにある斑点を、数えないようにしながら見ている。数え始めると、花そのものよりも数のほうへ意識が寄ってしまうからだ。今朝は夜明け前に細い雨が降り、その後は雲が低く残っている。湿った空気の中で見るホトトギスは、乾いた日に見るよりも斑点の一つ一つがはっきりしていて、花びらの薄いところまで目に入る。

今日は九月八日。今日の花としてホトトギスを知り、そこに「永遠にあなたのもの」という言葉が添えられているのを読んだ。かなり強い言い方だと思った。僕なら、誰かにそのまま渡す勇気はない。受け取る側になったとしても、嬉しいより先に、返事を急がされているような気持ちになるかもしれない。朝から読むには、少し姿勢を正さなければならない言葉だった。

ただ、花びらを見ていると、その言葉が花全体を説明しているわけではないことも分かる。白に近い色の上へ紫の斑点が散っていて、きれいに整えられた模様には見えない。濃いところもあれば、薄く途切れているところもある。花びらの縁にかかっている斑点は途中で切れていて、内側のものだけを見るより形が分かりにくい。言葉だけを先に読むと大きく感じるのに、花へ戻ると、ずいぶん細かな姿をしている。

僕は一度、斑点の少ない花を探そうとした。けれど、どれが少ないのか決められず、花びらの端まで見ているうちに、最初に見ていた花を見失った。視線を戻すために、いちばん下の花びらの斑点を目印にしたが、それも別の花と似ていた。こういうところで僕はよく余計な基準を作る。今日の花なら今日らしく受け取ればいいのに、並べて比べたくなる。

ホトトギスという名前も、花の姿を見たあとでは少し変わって聞こえる。名前の由来を深く調べるところまでは進まず、ただ口の中で一度だけ言ってみた。短い名前なのに、斑点のある花を見た直後だと、音のほうにも模様があるように感じる。もちろん、これは僕の勝手な印象だ。名前をもう一度言うと、さっきまで見ていた花の白さより、紫の点のほうが先に浮かんだ。

「永遠にあなたのもの」という花言葉を、約束としてではなく、見ている間だけ預かる言葉にしておく。そんな都合のいい読み方をしても、花は何も困らない。僕のほうが勝手に重さを調整して、斑点の数から目を離したり、また端の一つへ戻ったりしている。言葉を短くできない代わりに、眺める時間だけを区切ることにした。

雲の明るさが少し変わり、濡れた花びらの表面が見えにくくなった。もう一度だけ斑点を数えかけて、三つ目のところでやめた。三つ目だけ、周囲の紫が少しにじんで見えたので、数として扱うかどうか迷った。ホトトギスについて書くなら、今日はそのくらいの途中で置いておく。

雨に濡れたコスモスの花と葉を写した朝の写真

雨の朝、コスモスの「野生美」を読み直す

コスモスの細い茎を目で追いながら、僕は今日の花として書かれていた「野生美」という言葉を、もう一度読み直していた。朝七時の雨はまだ細く続いていて、花びらの先に乗った水滴が、ときどき重さに負けて落ちる。昨日からの雨で空気は湿っているけれど、コスモスの姿は弱々しいというより、茎の曲がり方まで含めてそのまま置かれている感じがした。

「野生美」と聞くと、もっと手入れをされていない場所や、背の高い草の間に咲く姿を思い浮かべる。けれど、目の前のコスモスは、誰かが選んだ種から育ったものかもしれないし、整えられた場所で咲いているのかもしれない。そこまで考えてしまうと、花の言葉を読むだけなのに、確認することが急に増える。野生かどうかを決める材料など、僕の前には何もない。

それでも、この言葉が完全に外れているとも思えなかった。花びらは薄く、茎は頼りなく見えるのに、雨を受けたあとも上を向こうとしている。まっすぐ立っているわけではない。隣の茎に寄りかかるように傾き、葉の重なったところで一度折れたような線になっている。その不揃いな立ち方を見ていると、きれいに咲くことだけがコスモスの仕事ではないように思えてくる。

僕は「野生美」の三文字を頭の中で区切ってみた。野生、美。つなげて読むと少し強いが、分けてみると、荒々しさよりも、飾りきれない状態を指しているようにも見える。もちろん、これは僕が今の雨に合わせて勝手に読んでいるだけだ。晴れた日に同じコスモスを見たら、もっと別の言葉を当てたくなるかもしれない。

花の言葉は、花そのものに貼りついた説明ではなく、見る側がその日の気分で拾う短い札に近いのだろう。そう思ったところで、また水滴が一つ落ちた。落ちた先にある葉が少し揺れたので、僕は花ではなく、その葉の付け根をしばらく見ていた。そこには小さな傷のような茶色い跡があり、昨日見たときからあったのか、雨のせいで現れたのかは分からない。

コスモスの花びらは、雨で少し重たそうになっている。けれど「野生美」という言葉を訂正するほどではない気がして、僕は読み終えた画面をすぐには閉じなかった。次にどの花の名前が出てくるのかを見る前に、もう一度だけ、いちばん手前の花びらの端を確かめている。

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