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思考と技術の記録。besoft Blog

開発・設計・運用・プロダクトづくりのなかで得た知見を、読みやすくまとめて共有します。

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雨の名残を含んだ朝のクズの葉と紫色の花

クズの葉を裏返して、朝の言葉を確かめた

クズの葉を裏返しながら、僕は紫色の花がどこにまとまっているのかを確かめていた。雨の名残がある9月12日の朝、7時10分の空は一面に雲がかかり、葉の表面には細かな水滴が残っている。昨日の雨で濡れたせいか、クズの葉はいつもより重そうに見えたが、実際に指で触れることはせず、端を少し持ち上げるだけにした。

今日の花としてクズを見て、最初に目に入ったのは花より葉だった。三枚に分かれた葉が重なり、その隙間から紫色の花がまとまって出ている。花を探しに来たのに、僕は葉の向きばかり確認していた。表側の水滴が落ちると、下の葉に小さな跡が残り、同じ緑色でも乾いた部分と濡れた部分で見え方が違う。

クズに添えられる言葉の一つに「芯の強さ」がある。花の姿だけを見ていると、少し意外な言葉にも思える。紫の花は細かく、雨に濡れた今朝は華やかさを前へ出してこない。それでも、葉をどけても次の葉が現れ、つるの行き先を目で追うと、簡単には途切れない感じがあった。

ただ、ここで「強い花だ」とすぐ決めるのはやめておいた。僕は植物を見ると、見えたものにそれらしい意味を付けて安心したがるところがある。クズの茎がどこへ伸びているのかも、根がどれほど深いのかも、今いる場所からは分からない。分かったのは、濡れた葉を一枚ずつ見ていくと、花の位置が少しずつ見つかったことだけだった。

一度、紫色の花を数えようとした。けれど葉の重なりで隠れる部分があり、数え始めた位置も分からなくなったので、すぐにやめた。代わりに、花の房が葉の下向きに寄っていることを見た。雨粒が残る細い茎は、触れば折れそうに感じるのに、花のまとまりは思ったより崩れていない。

「芯の強さ」という言葉を考えながら、僕はクズを立派なものに見せようとはしなかった。伸び方には少し乱れがあり、葉同士が重なって、花を隠している。きれいに整った姿ではない。その整わなさを見ていると、言葉の意味を花の外側から貼り付けるより、見たままの細い茎や濡れた葉の中に置いておくほうが合っている気がした。

雲の明るさが少し変わり、葉の水滴が一つ落ちた。音は聞き取れなかったが、落ちた場所だけ色が深くなったので、僕はそこをもう一度見た。花を探していたはずなのに、最後まで葉の変化を覚えている。クズという名前も、今日の言葉も、いったんそのままにして、紫の花が隠れているあたりへ視線を戻した。

雨に濡れたフヨウの花と葉を描いた朝の庭のリアルな写真

フヨウの花を、名前より先に見た朝

フヨウの花を、雨に濡れたままの姿で見ている。朝の雨はまだ細く続いていて、花びらの端にたまった水が重そうに下がっている。昨日から降っているせいか、葉にも乾いたところがなく、緑の濃淡がいつもよりはっきりしていた。僕は最初、花の中心ではなく、いちばん外側の花びらを見ていた。そこだけ少し折れたような線があり、傷なのか、雨の重みでそうなったのか、すぐには決められなかった。

今日の花としてフヨウを調べたとき、花に添えられていたのは「繊細な美」という言葉だった。こういう言葉は、知った瞬間に花の見方を決めてしまうところがある。フヨウを見れば繊細、雨に濡れていればなおさら繊細、と先に答えを置いてしまいそうになる。けれど今朝の花は、きれいなだけではなく、花びらの一部が水を含んで少し下がり、葉の縁には細かな傷もあった。僕はその傷を見つけてから、花の言葉をすぐには重ねないことにした。

それでも「繊細な美」という言い方が間違っているとは思わなかった。繊細というのは、壊れそうなものを遠くから眺めることだけではなく、形のわずかな違いをそのまま見ておくことなのかもしれない。フヨウの花びらは、雨粒を受けても一枚ずつ同じ向きにはならない。中心へ寄るもの、外へ開いたままのものがあり、僕は数えるつもりもないのに、視線だけでその並びを何度か確かめた。

花の名前を思い出す前は、ただ雨に濡れた花として見ていた。名前を知った後は、言葉に合っているかどうかを確認しようとしていた。その違いが少しおかしくて、僕は一度、花から目を外して葉の付け根を見た。そこにも水が残っていて、葉の表側より暗く見える。花言葉を読むと、花そのものを分かった気になりやすいけれど、実際には見る場所が増えただけなのだと思う。

雨の音が弱くなったので、もう乾き始めたのかと思い、花びらの端をもう一度見た。水滴はまだそこにあり、さっきより細くなったようにも、僕の見方が変わっただけのようにも見えた。フヨウの花は朝の光を受ける前の色をしていて、僕はその色をうまく言い換えずに眺めていた。花の言葉を書き留めるなら、その下に小さく、花びらの外側に雨が残っている、とだけ付け足しておきたい。

雨の朝に白いブバルディアが咲いているリアルな写真

ブバルディアの白さを、雨の朝に読み違えた

ブバルディアの白い花を見ながら、清楚という言葉を一度口の中で転がしてみた。外は昨日の大雨がまだ残っていて、今朝も細い雨が続いている。東京の空は明るくなりきらず、窓の向こうの輪郭も少しぼやけている。07時45分、気温は19度ほど。花を眺めるには、暑さよりも湿り気のほうが先に伝わる朝だ。

今日の花として紹介されていたブバルディアには、清楚という意味が添えられていた。白い花だから、その言葉が置かれた理由はすぐ分かる気がした。ただ、四つに分かれた花びらの先はきれいに揃っているわけではなく、ひとつだけ少し横を向いている。茎もまっすぐ上へ伸びるというより、隣の花を避けるように傾いていた。

僕は花言葉を覚えるのがあまり得意ではない。覚えたつもりの言葉が、別の花にも使われていたり、同じ花にいくつも並んでいたりするからだ。ブバルディアの「清楚」も、花そのものの性格を言い当てた言葉というより、見た人が最初に置いてみた札に近いのだろう。それでも、札があると花を見る順番が少し変わる。

まず白さを見る。次に、花びらの縁を見る。そのあとで、中心の奥に残った薄い色へ目が移る。清楚だけで済ませていたら、僕はたぶんここまで細かく見なかった。洗いたてのような白さの横に、雨の日らしい重さがある。花びらは濡れていないのに、空気の湿り気を受けているように見えた。

昨日の雨で、花の表面には細かな水滴が残っている。僕はその数を数えようとして、すぐにやめた。数え始めると、白い花を見ているのか、水滴の確認をしているのか分からなくなるからだ。代わりに、いちばん手前の花だけを少し長く見た。四枚のうち一枚が内側へ折れ、奥の茎を隠している。

清楚という言葉からは、乱れのないものを想像しやすい。でも実際のブバルディアは、整っている部分のすぐ隣に、揃わない部分を持っている。そこを見つけたからといって、言葉を訂正したいわけではない。今日の僕には、白さを先に決めつけないための目印になった、というくらいでいい。

窓の外ではまだ細い雨が降っている。花の名前をもう一度確認しようとして、ブバルディアの文字を見たところで指が止まりかけた。濁点の位置まで確かめる必要はないのに、そこだけ気になってしまう。白い花は視界の端に置いたまま、僕は画面を閉じる前に、花びらの向きをもう一度だけ見ている。

朝の光が差し込む部屋の内側に置かれた白い菊の鉢

重陽の日、菊の鉢を少しだけ近くへ寄せた

白い菊の鉢は窓のすぐそばではなく、いつもより少しだけ部屋の内側に寄せてある。僕が動かしたからだ。朝の光はすでに明るく、昨日の雨が残した湿り気を窓の向こうに感じるけれど、空はよく晴れている。菊の葉には水を含んだような濃さがあり、花びらの先だけが光を拾っていた。鉢の縁には目立つ汚れもなく、動かしたあとに指で拭う必要はなさそうだった。

今日は重陽の日だと、朝に日付を見て思い出した。菊を飾って長寿を願う日、と以前どこかで読んだことがある。読んだ場所までは覚えていないのに、「長寿」という言葉だけが妙に残っている。こういう知識は、必要なときにすぐ出てこないくせに、白い菊の鉢を前にすると急に姿を見せる。日付を確認したあと、もう一度画面を見たのも、何かを間違えた気がしたからではなく、菊と重陽という組み合わせを自分の中で確かめたかったからだ。

菊の花言葉には「高貴」や「清浄」、「信頼」などがあるらしい。白い菊を見ていると、その中では清浄が一番近そうに思える。ただ、花びらの重なりには少し乱れがあって、中心に近いところには開き方の違うものもある。外側の一枚だけ、隣の花びらの下へ入り込んでいるところもあった。整いきっていないのに清らかだと言うのは、僕の都合のよい見方かもしれない。それでも、意味を一つに決めてしまうより、その日の自分に近い言葉を一つ選ぶほうが、花を眺めるときには扱いやすい。

鉢を寄せたのは、光を当てるためというより、視界の端に花が入る位置にしたかったからだと思う。思う、と書いたのは、動かした直後には理由を考えていなかったからで、あとから説明を足しているだけかもしれない。鉢の底が床を擦った音は小さかったが、僕はその音の長さを覚えている。花そのものより、そんなところを覚えているのはいつものことだ。寄せた距離も、手の幅ほどだったのか、それより短かったのか、今となってははっきりしない。

白い花を一輪ずつ見ようとして、途中でやめた。数え始めると、花びらの重なりを確かめる作業になってしまう。いくつ咲いているかを知りたいわけではないのに、数えた数字だけが残りそうだった。菊の花言葉も、正しい順番に並べる必要はないのだろう。窓から入る朝の光が少し横へ移ったので、鉢の向きをほんの少し戻し、葉の影が花にかからない位置を探しているうちに、出かける支度のことを思い出した。戻す角度を決めるまでに一度だけ手を離し、花の中心が見えるかを少し離れたところから確かめている。

曇った九月の朝に咲くホトトギスの花

斑点の数を数えない朝、ホトトギスを読む

ホトトギスの花びらにある斑点を、数えないようにしながら見ている。数え始めると、花そのものよりも数のほうへ意識が寄ってしまうからだ。今朝は夜明け前に細い雨が降り、その後は雲が低く残っている。湿った空気の中で見るホトトギスは、乾いた日に見るよりも斑点の一つ一つがはっきりしていて、花びらの薄いところまで目に入る。

今日は九月八日。今日の花としてホトトギスを知り、そこに「永遠にあなたのもの」という言葉が添えられているのを読んだ。かなり強い言い方だと思った。僕なら、誰かにそのまま渡す勇気はない。受け取る側になったとしても、嬉しいより先に、返事を急がされているような気持ちになるかもしれない。朝から読むには、少し姿勢を正さなければならない言葉だった。

ただ、花びらを見ていると、その言葉が花全体を説明しているわけではないことも分かる。白に近い色の上へ紫の斑点が散っていて、きれいに整えられた模様には見えない。濃いところもあれば、薄く途切れているところもある。花びらの縁にかかっている斑点は途中で切れていて、内側のものだけを見るより形が分かりにくい。言葉だけを先に読むと大きく感じるのに、花へ戻ると、ずいぶん細かな姿をしている。

僕は一度、斑点の少ない花を探そうとした。けれど、どれが少ないのか決められず、花びらの端まで見ているうちに、最初に見ていた花を見失った。視線を戻すために、いちばん下の花びらの斑点を目印にしたが、それも別の花と似ていた。こういうところで僕はよく余計な基準を作る。今日の花なら今日らしく受け取ればいいのに、並べて比べたくなる。

ホトトギスという名前も、花の姿を見たあとでは少し変わって聞こえる。名前の由来を深く調べるところまでは進まず、ただ口の中で一度だけ言ってみた。短い名前なのに、斑点のある花を見た直後だと、音のほうにも模様があるように感じる。もちろん、これは僕の勝手な印象だ。名前をもう一度言うと、さっきまで見ていた花の白さより、紫の点のほうが先に浮かんだ。

「永遠にあなたのもの」という花言葉を、約束としてではなく、見ている間だけ預かる言葉にしておく。そんな都合のいい読み方をしても、花は何も困らない。僕のほうが勝手に重さを調整して、斑点の数から目を離したり、また端の一つへ戻ったりしている。言葉を短くできない代わりに、眺める時間だけを区切ることにした。

雲の明るさが少し変わり、濡れた花びらの表面が見えにくくなった。もう一度だけ斑点を数えかけて、三つ目のところでやめた。三つ目だけ、周囲の紫が少しにじんで見えたので、数として扱うかどうか迷った。ホトトギスについて書くなら、今日はそのくらいの途中で置いておく。

雨に濡れたコスモスの花と葉を写した朝の写真

雨の朝、コスモスの「野生美」を読み直す

コスモスの細い茎を目で追いながら、僕は今日の花として書かれていた「野生美」という言葉を、もう一度読み直していた。朝七時の雨はまだ細く続いていて、花びらの先に乗った水滴が、ときどき重さに負けて落ちる。昨日からの雨で空気は湿っているけれど、コスモスの姿は弱々しいというより、茎の曲がり方まで含めてそのまま置かれている感じがした。

「野生美」と聞くと、もっと手入れをされていない場所や、背の高い草の間に咲く姿を思い浮かべる。けれど、目の前のコスモスは、誰かが選んだ種から育ったものかもしれないし、整えられた場所で咲いているのかもしれない。そこまで考えてしまうと、花の言葉を読むだけなのに、確認することが急に増える。野生かどうかを決める材料など、僕の前には何もない。

それでも、この言葉が完全に外れているとも思えなかった。花びらは薄く、茎は頼りなく見えるのに、雨を受けたあとも上を向こうとしている。まっすぐ立っているわけではない。隣の茎に寄りかかるように傾き、葉の重なったところで一度折れたような線になっている。その不揃いな立ち方を見ていると、きれいに咲くことだけがコスモスの仕事ではないように思えてくる。

僕は「野生美」の三文字を頭の中で区切ってみた。野生、美。つなげて読むと少し強いが、分けてみると、荒々しさよりも、飾りきれない状態を指しているようにも見える。もちろん、これは僕が今の雨に合わせて勝手に読んでいるだけだ。晴れた日に同じコスモスを見たら、もっと別の言葉を当てたくなるかもしれない。

花の言葉は、花そのものに貼りついた説明ではなく、見る側がその日の気分で拾う短い札に近いのだろう。そう思ったところで、また水滴が一つ落ちた。落ちた先にある葉が少し揺れたので、僕は花ではなく、その葉の付け根をしばらく見ていた。そこには小さな傷のような茶色い跡があり、昨日見たときからあったのか、雨のせいで現れたのかは分からない。

コスモスの花びらは、雨で少し重たそうになっている。けれど「野生美」という言葉を訂正するほどではない気がして、僕は読み終えた画面をすぐには閉じなかった。次にどの花の名前が出てくるのかを見る前に、もう一度だけ、いちばん手前の花びらの端を確かめている。

雨の跡が残る窓辺に置かれた桔梗の花瓶

桔梗の青を、雨の朝に一度だけ見る

窓辺の桔梗の茎を少しだけ回して、花の正面がこちらを向く位置を探していた。昨日からの雨が今朝も続いていて、窓ガラスには細い水の跡がいくつも残っている。外は明るくなりきらず、桔梗の紫も晴れた日に見るより少し沈んで見えた。花びらの端には、窓の向こうの湿った明るさが薄く重なっているようだった。

花瓶を動かすほどではないと思い、茎の上のほうだけを指でつまんだ。回しすぎると葉がガラスに当たるので、いったん戻して、今度は花の向きではなく葉の重なりを見た。僕はこういうとき、花をきれいに見せたいのか、置き方を決めたという事実が欲しいのか、自分でも分からなくなる。茎を持った指を離してからも、離した位置が急にずれていないか、花瓶の口元をもう一度確かめた。

今日の花として桔梗を選んだのは、青みのある紫が雨の朝に合うと思ったからだ。桔梗の花に添えられる言葉には、誠実や清楚、永遠の愛がある。大きく広げれば立派な意味に見えるけれど、今朝の僕には「誠実」という短い言葉だけが、花瓶のそばに残った。ほかの言葉まで並べると、目の前の花より説明のほうが大きくなりそうで、そこから先は考えなかった。

誠実というと、約束を守るとか、嘘をつかないとか、すぐに人へ向けるものを考える。けれど桔梗を見ていると、もっと手前の、自分が見たものを見たままにしておくことに近い気もした。紫を青と言い張らないこと、開きかけの花を満開のように扱わないこと、茎の傾きを必要以上に直さないこと。そんな小さな線引きが、今朝は妙に細かく思えた。花の形を整えるために、花そのものの状態を隠してしまうこともできるが、そこまではしないでおく。

一度、花瓶の水面に目を落とした。水は濁っていないが、茎の切り口の近くに小さな泡がついている。取り除こうとして花瓶を持ち上げかけ、そこまですることでもないと手を戻した。戻したあとで、やはり泡の位置をもう一度見た。桔梗より先に泡を覚えてしまう朝もある。泡は花の正面からは見えにくく、少し横へ移動すると水の中で白く残っていた。

窓の外では雨が細く続いている。強く降っているわけではないのに、道路の色はすっかり濃く、乾いた部分が見当たらない。桔梗の花びらにも外の湿り気が移ったように見えたが、それは僕が窓と花を同じ順番で見たせいだろう。ガラスを拭けばもっと明るく見えるのかもしれないが、今朝は水の跡を消す理由も思いつかなかった。

花の向きを決めたあとも、正解にしたつもりはない。少し横を向いた桔梗をそのままにして、葉が一枚だけガラスから離れていることを確認した。そこを直すかどうか考えながら、僕はまだ花瓶の前に立っている。

雨の残る朝、花瓶に生けたオミナエシと小さな札

オミナエシの小さな札を裏返さなかった朝

オミナエシの細い茎を花瓶の中で少しだけ回して、黄色い花の集まりがこちらを向く位置を探していた。大きく動かすと全体が崩れそうなので、茎をつまむというより、花瓶を数ミリずつ回す。雨の残った朝で、窓の外は明るいのに空気はまだ重く、七時四十分の部屋には乾ききらない感じがあった。花瓶の肩に残った水滴を見つけたが、拭くほどでもないとそのままにした。

そばに置いた小さな札には、オミナエシについての言葉が書かれている。僕はそれをすぐ読まず、先に花の数を見た。数えるほど整ってはいないのに、黄色い粒がいくつあるかを目で追ってしまう。茎の先にまとまった部分と、少し離れて咲いている部分があって、ひとつの花というより、細かな場所が集まっているように見えた。少し姿勢を低くすると、隠れていた茎が一本だけ見えた。

札を裏返せば、その花に添えられた意味が分かる。けれど、裏側を見る前に、僕の中ではもういくつか言葉が浮かんでいた。明るい、細い、遠慮がち、という順番だった。どれも説明として正しいのかは分からないし、花を見て最初に浮かんだ言葉を、わざわざ採点する必要もない。それでも、札に書かれた言葉と自分の言葉が違っていたら少し困る気がして、指先が紙の端で止まった。紙の角が少し反っていて、そこだけ何度も見てしまった。

オミナエシには、慎ましさを思わせる意味があると読んだことがある。今日の花として見るなら、そういう受け取り方はよく似合うと思う。ただ、花は慎ましくなろうとして咲いているわけではない。細い茎が傾けば花の向きも変わり、こちらから見える黄色の面積も変わる。意味を当てはめる前に、置かれている角度を見ておきたくなった。花瓶を正面から見たあと、少し右へ体をずらして、見え方が変わるか確かめた。

花瓶の水面に、窓の白い明るさが細く映っていた。水を替えるほどではないと判断したあとで、花瓶の底に沈んだ茎の切り口が気になり、横から覗いた。見えたのは薄い影だけだった。こういう確認ばかりしていると、花を見るために花を置いたのか、確認するために置いたのか分からなくなる。水面の線が少し揺れたので、僕は花瓶から顔を離して、揺れが消えるまで待った。

札を表に戻すと、短い言葉が目に入った。僕が先に考えた言葉とは少し違ったが、間違いという感じもしなかった。オミナエシの黄色は、意味を読む前からそこにあり、読んだあとも同じ場所で揺れている。納得したような、まだ決めきれないような気分で、僕は花瓶を元の向きからほんの少しだけずらした。

雨の夜の自宅で引き出しに置かれた輪ゴム

雨の夜、輪ゴムを一つだけ伸ばした

輪ゴムを指先で少し伸ばし、引き出しの仕切りにかけたまま、僕はその長さを見ていた。切れるほどではない。ただ、戻したときに輪が二重になるか、一重のまま残るか、それだけが決めきれなかった。外では雨が続いていて、窓の向こうは黒く、部屋の中では引き出しを動かす音だけが近く聞こえた。

この輪ゴムは、何かを束ねるために出したものではない。引き出しの奥でほかの輪ゴムに絡まり、端だけが手前へ出ていたので、いったん取り出した。伸ばす前に見れば、少し白くなった部分があり、何度か使われたものらしい。捨てるほどではないが、頼り切るのもためらう、という中途半端な状態だった。

僕は仕切りの右側へかけてから、左側へ移した。左のほうが輪の形は整うのに、引き出しを閉めるとき、木の縁に触れそうになる。もう一度右へ戻し、今度は輪ゴムのねじれを指で一回ほどいた。ほどいたつもりが端の重なりだけ増えたので、結局、指を離してから正面から見直した。

雨音のせいか、いつもより小さな物の位置がはっきりしていた。輪ゴムのそばには、使う予定のない短いひももあり、そちらへ触れないように指の置き場所まで選んでいる自分がおかしかった。最後は伸ばしすぎないところで仕切りにかけ、引き出しを閉じる手前まで押し込んだところで、また少しだけ向きを変えた。

雨の夜の部屋に置かれた少しへこんだティッシュ箱

ティッシュ箱のへこみを、雨の夜に戻しかけた

ティッシュ箱のへこみ

ティッシュ箱の側面を指で押し戻しながら、僕は箱全体を少し手前へずらした。雨の音が窓の向こうで途切れずに続いていて、部屋の中では紙を引く音だけがやけに近く聞こえる。箱は使いかけで、上の取り出し口のあたりはまだ平らなのに、右側だけが内側へつぶれていた。

いつできたへこみなのかは分からない。買ったときからだった可能性もあるし、置くときに僕がどこかへぶつけたのかもしれない。指の腹で押すと、薄い紙の板が少し戻り、離すとまた同じ場所が浅く沈んだ。完全に直すつもりはなかったのに、二度、同じところを押した。

箱を回して裏側も見た。底の角には小さな擦れがあり、そこだけ白い紙が毛羽立っている。側面のへこみより、そちらのほうが前からあったように見えた。僕はなぜか、箱を置いた向きが悪かったのではなく、取り出し口をこちらへ向ける順番が違ったのだと思い始めた。

置く向きを決めるまで

いったん手を離して、箱の長い辺をテーブルの縁と平行にした。さっきより収まりはいい。ただ、右側のつぶれは見えやすくなったので、今度は反対向きに回した。見えなくなれば済む話なのに、隠しただけにするのも少し違う気がして、結局、最初の向きへ戻した。

午後から続く雨で、湿った空気が部屋にも入っている。紙箱の表面は乾いているが、触るとざらつきがいつもよりはっきりする。僕は次の一枚を引く前に、取り出し口の端を親指でなぞり、へこみをもう一度だけ押した。戻ったかどうかは、まだよく分からない。

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