帰宅して真っ先に洗面所へ向かう。電気のスイッチには手を伸ばさず、蛇口をひねる。水の冷たさが指先から腕に伝わる。窓の外はまだ完全な暗闇ではなく、ほのかに明るい。その光が、洗面台の上の鏡に斜めに差し込んでいる。洗面所の空気は昼間の熱を少し残しているが、床タイルはひんやりしている。蛇口から滴る音が静かに響く。
曇りのない鏡
鏡の表面には、水滴も指紋もない。昼間に誰かが拭いたのだろう。だからこそ、映り込みがやけに鮮明だ。向こう側に、薄暗い洗面所の全体が逆さまに広がる。タオル掛け、歯ブラシ立て、そして私の上半身が半分だけ画面に収まる。動かずにいると、自分が鏡の中に取り残されたように見える。それは錯覚だと知っているが、目をそらせない。鏡の中の自分も同じ方向を見ている。
時間の残像
鏡の右下の縁に、乾いた歯磨き粉の白い跡が点々と残っている。朝、誰かが慌てて歯を磨いた痕だ。もう半日以上経っているのに、そのまま放置されている。窓の色が一段と濃くなる。紫色から灰色へ、そして黒へと変わる過程が、鏡の中でもゆっくり進む。私の像も次第に輪郭を失い始める。もう首の曲線も判別できない。
暗がりへ
手を拭くため、タオルを取る。鏡の中の手が同じ動きをする。タオルは少し湿っていた。それでも顔を拭いた。鏡を見ると、もう自分の表情は判別できない。ただ、暗い面がそこにあるだけだ。電気を点ける気にはなれなかった。洗面所を出るとき、鏡の端が一瞬だけ光ったように見えた。その光はすぐに闇に飲まれた。
