農林水産省が公開した「佃煮の日」ポスターが「クソダサい」と話題になったらしい。実際の画像を見ると、確かにレイアウトも字体もどこか手作り感があふれている。けれど、その拙さが妙に愛おしい。
AIに再現できないもの
記事ではGeminiやChatGPTに同じポスターを作らせていたが、どれも洗練されすぎている。AIは「ダサさ」を意図的に再現できない。なぜなら、ダサさとは計算外のズレや、時間をかけて積み重なった個人的な癖から生まれるからだ。
人間が手書きした文字の太さのムラ、色の滲み、余白のバランスの悪さ。それらは全て、作り手のその日の体調や気分、手の動きを映し出す。AIにはそうした身体性がない。
窓辺の光と手の感覚
ふと、自分が小学生の頃に描いた学級新聞を思い出す。見出しをマジックで太く書き、挿絵を枠からはみ出させてしまった記憶。あの時に感じた、自分の手で何かを作るという喜びと悔しさ。AIが生成した完璧なポスターには、そうした体温が欠けている。
部屋の窓からは、雲の切れ間から差し込む日差しが机の上を照らしている。昨日までの雨の湿気がまだ空気に残り、窓枠に結露が光る。この微妙な気候の変化も、AIには感知できない。
「ダサさ」の価値
SNSでは「AIには出せない温かみ」という声が多数あった。確かにその通りだ。しかし、それは単なるノスタルジーではない。不完全さの中にこそ、人間らしさが宿る。完璧を求めすぎると、逆に冷たさが目立つ。
私は、あのポスターを支持する。もっと多くの人が、自分の手で何かを描くことの意味を見つめ直せばいいと思う。AIがどんなに進化しても、この「ダサかわいい」感覚は、人間にしか生み出せない領域として残り続けるだろう。
