蛇口をひねる音
洗面所の扉を開けると、昼間とは違う静けさがそこにあった。蛇口をひねる。金属の冷たさが指先に伝わってくる。水が流れ始めるまでのわずかな間、配管の中で何かが動く音がする。
右手で蛇口を回しながら、左手はもう洗面台の縁に置かれている。いつからこの動作を覚えたのか、考えたこともない。水の音が洗面所の壁に反響する。タイルの継ぎ目に、昨日こぼした歯磨き粉の跡がまだ残っている。
鏡の中の手
顔を洗おうとして、ふと鏡を見る。蛍光灯の光が水面に小さく揺れている。手を水に差し入れると、鏡の中でも同じ動きが起きる。でも微妙にずれている。このずれに気づいてしまうと、もう見ないではいられない。
水をすくう。指の間からこぼれていく感触。子どもの頃、風呂場でやった水遊びを思い出す。あの頃は水をすくうことそのものが楽しかった。今は顔を洗うための一動作でしかないのに、手は同じように水をすくっている。
洗面台の端
洗面台の端に、小さな欠けがある。引っ越してきたときからあったものだ。濡れた手でそこに触れると、ざらりとした感触がする。タオルで手を拭きながら、また同じ場所に目がいく。
蛇口を閉める。水の音が止まると、換気扇の低い音だけが残る。洗面所を出る前に、もう一度鏡を見る。さっきと同じ顔がそこにある。でも何かが違う。たぶん、濡れた髪の毛が額に貼りついているせいだ。
ドアノブに手をかける。金属の冷たさが、さっきの蛇口とは違う温度で伝わってくる。廊下に出ると、洗面所の明かりが床に細長く伸びている。
