帰宅して鍵を回した。バッグを床に置く。廊下の灯りが湿った空気に滲む。洗面所の引き戸に手を伸ばす。
引き戸の手触り
指先が木枠の角をなぞる。湿気を含んだ木は少し柔らかい。戸を横に滑らせると、レールから微かな抵抗が返る。軋む音が廊下にじわりと広がる。その音は昨日も聞いたはずだが、湿度のせいか今日は低く響く。手のひら全体で戸の重さを受け止めながら、奥の暗がりに目を凝らす。網戸がほのかに揺れている。窓は閉めてあるのに、空気の流れが戸の隙間から入ってくるのか。木目が薄明かりに浮かび上がる。節の形が、子供の頃に描いた雲の中の動物を思い出させる。節の縁を指で追う。凹凸が湿気でやわらいでいる。
音の残響
戸を完全に開けきる前に手を止める。耳を澄ますと、軋みの余韻がまだ耳の奥に残っている。洗面所の蛍光灯が点く前の、無防備な空間。鏡は真っ暗で、こちらを見返すのはただの影。数秒後、指を放すと戸はわずかに戻り、また短い音を立てる。そのまま手を洗う代わりに、もう一度戸を閉め直す。同じ音が繰り返される。レールの潤滑油が乾いているのか、滑りはぎこちない。こんな夜更けに、引き戸の調子を確かめる自分を、誰かに見られていないかふと思う。でも誰もいない。廊下の灯りだけが、濡れた溜まりのようにじっと床に落ちている。湿度が高いせいで、灯りの輪郭がぼやけている。
